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2016.9.1発行、第455号


　かれこれ30年近く前、ボンベイ（当時）在住の友人宅に泊まりながら、市の郊 外だけを廻る半日のバスツアーに参加した。街のかなり北郊に森林地帯の一部を 囲い込んでレストランや売店を置いた公園式のリクリエーション施設があって、 昼食かトイレ休憩のために立ち寄ったところ、映画の撮影をしているのに出くわ した。役者が売店近くの屋根とベンチのあるスペースで、お付を従えて休憩して いるところだった。それが主役だったのだろう、男優と女優が一人づつ、男優は 私にも判別できた。ミトゥン・チャクラバルティー（現在は草の根会議派選出上 院議員）である。

　夕食時にその報告をすると、友人の小学生の息子が「僕の学校でもこの前ロケ があったよ」という。彼の学校とは、細い道路を挟んでこの家のほとんどはす向 かいにあるレンガ造りの古い私立学校だ。「○○の学校はよくロケに使われるの よ、この前はアミターブだったかしら？」と友人。「違うよ、ヴィノード・カン ナ―だよ！アミターブが来たのは何年か前で、僕はまだ学校に行ってなかった」 息子は厳しい調子で母親を訂正しつつ、自分が幼すぎてアミターブを見逃してし まったことがさも悔しそうだ。しかしめげずに続ける。「その前は女優も来たよ。 でも名前忘れちゃったな・・・」「○○○じゃなかったっけ？」と姉娘が口を挟む と、「違うよ！もっと若い人だよ」と鋭く叫ぶ。姉ちゃんの学校にはロケなど来 たことないんだから、と幼い彼のプライドは全開だ。
　友人の住まいはチョウパティ・ビーチからほんの少し内陸に入った辺りで、ボ ンベイ中心部の昔ながらの住宅街にある。マリーンドライブやハンギングガーデ ンといった名所も近い。当時のヒンディー語映画はまだ、そうした昔ながらのボ ンベイのど真ん中でロケが行われていた。自分の教室がロケ現場になった息子の 興奮は格別であるとしても、この一家にとって日常的に往来しているご近所でロ ケがありスターたちに出くわすことは、その度ごとに一大事ではあるものの、特 別過ぎるほどの出来事ではなかったのだ。

　ボンベイがすでにムンバイとなってから、いわゆるフィルムシティの門前とも 言うべき立地に住む別の友人宅に滞在した時、昔ながらの市街地とフィルムシティ が存外離れていることを実感した。私がミトゥンを目撃した、かなり郊外と思っ ていた緑地公園はむしろフィルムシティに近かった。その頃にはムンバイの道路 事情は悪化し、市街地と郊外の移動には結構な時間を要するようになっていた。 ボリウッド映画は何か国も股にかけた海外ロケや豪華なスタジオセットや驚きの 映像技術が売りものになり、昔ながらのボンベイな市街地で収録されたらしき映 像は滅多に見かけなくなった。
　旧市街の友人宅を再訪するたび、友人宅と息子の学校の間を通る住宅地の細い 通りの両側に住民の自家用車が増えていった。独立前か独立直後から建つ道の両 側のマンションの敷地には駐車スペースなどない。住民の経済力の向上とともに 増えた自家用車は、いつしか住宅地の生活道路の両端を隙間ないほど埋め尽くし、 ただでさえ細い道路をさらに狭くしていた。息子が卒業して何年も経った学校は、 校庭を削って校舎を増築し道路側の塀を高くし、道から校内の様子はほとんど窺 えなくなった。ロケのために道にたくさんの車両を止め、スタッフが校庭に機材 を拡げる余地ももはやあるまい。

　近年の映画には、オマージュのように「ボンベイ」の下町に舞台に据えたもの もある。その映像は作り物のようでもなく、大都会ムンバイをくまなく探して 「ボンベイ」らしい風景や建物を見つけ出してきたように見える。それでも今の 技術で撮影された映像では時はごまかせない。レトロな時代の映画は、あの一家 の過去や私の記憶という個人の遺産にもなっている。

目次

・南アジア地誌事典　第230回　「30年越しのインパール」　（小磯　千尋）
・追悼：星川京児氏
　　「星川さん、十分に生きた人生」　（河野　亮仙）
　　「星川さんの仕事に寄り添って」　（近藤　博隆）
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